竹中重矩
表示
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
---|---|
生誕 | 天文15年(1546年) |
死没 | 天正10年6月6日(1582年6月25日) |
別名 | 久作(通称)、重隆 |
主君 | 斎藤龍興→織田信長 |
氏族 | 竹中氏 |
父母 | 父:竹中重元 |
兄弟 | 重行、竹中重治、重矩、彦八郎 |
竹中 重矩(たけなか しげのり、天文15年(1546年) - 天正10年6月6日(1582年6月25日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。美濃斎藤氏、織田氏の家臣。竹中重元の子。通称は彦作、久作。妻は中川重政の姉妹[1]。
生涯
[編集]天文15年(1546年)、斎藤氏家臣の竹中重元の子として誕生。兄に竹中重治がいる。
後世、竹中重治の智謀の代名詞と伝えられる永禄7年(1564年)2月の稲葉山城奪取の際には、稲葉山城に人質として入っていた重矩が病気を装い、兄・重治は、見舞いと称して安藤守就ら十数名とともに城内に入り、城番を油断させた隙に稲葉山城を占拠したといわれる。
永禄10年(1567年)、斎藤氏滅亡後は兄と共に織田氏に仕える。元亀元年(1570年)、姉川の戦いに参陣し、浅井氏の勇士・遠藤直経が織田軍の武将を装って信長の本陣に入り込み、信長の首を狙おうとしたが、旧知であった重矩がその正体を見破り、直経を討ち取る武功を挙げた。重矩は以前から「遠藤を討ち取る」と公言していたという[2]。ただし遠藤の首を打ったのは、重矩の後見として合戦に参加していた不破矢足である、とする話も伝わる。
天正7年(1579年)6月13日、播磨国の陣中で病死した兄・重治に代わり、同月22日、羽柴秀吉の与力として遣わされた[2]。天正10年(1582年)3月、信長に従い信濃国に出軍している[2]。
しかし、同年6月に信長が本能寺の変で死去した後、美濃国不破郡表佐村で起こった郷士一揆と戦って戦死した[3]。享年37。